第1回 安田 慎さん(帝京大学経済学部専任講師)
博士論文執筆を終えて
(本インタビューは2012年3月に行いました。)-記念すべきOB・OGインタビュー第1回は、2011年11月末に博士論文を提出された安田慎さんにお願いしました。大学院生活の集大成である博士論文執筆はさぞかし大変だったと思いますが、執筆を終えた今の気分はどんなものでしょうか?
安田:私は昨年(2011年)4月に現地でのフィールドワークから帰国して、それから博士論文の仕上げにとりかかりました。執筆開始、帰国、仕上げ、提出、そして今年1月に行われた口頭試問と、慌ただしく駆け抜けたというのが一番の感想です。
-「駆け抜けた」という表現は、特に安田さんには当てはまっていると思います。なにせ、安田さんの調査国は、今、政治情勢が大きく混乱しているシリアですからね。たしか、現地でのフィールドワーク中に、「アラブの春」がシリアに波及したんですよね?
安田:はい。私自身は、現地での調査中に身の危険を感じたことはなかったのですが、情勢が日に日に悪化していったことで、当初の調査期間を短縮して帰国することにしました。シリアの今後がとても心配です。
-博士号の学位授与式はまだこれからですが、「ドクター・ヤスダ」になるんだという実感はどうでしょう?
安田:まだその実感はまだないですね。マラソンで言うならば、ゴール地点を通過した後もまだ走っているような感じですから。1年くらい経って、ようやく博士号を取得したんだと思えてくるのではないでしょうか。
大学院入学、そして研究テーマとの出会い
-博士論文のテーマは、シリアにおけるシーア派参詣を対象とした研究でしたね?安田:はい。シリアにはシーア派(イスラームを代表する宗派:インタビュアー捕捉)の有名な聖地がいくつかあるのですが、1970年代以降、国内外のシーア派ムスリムたちによる聖地参詣がブームになってきました。私の博士論文では、「宗教ツーリズム」という独自の分析概念を使って、このシーア派聖地参詣を分析することで、従来、対立するものだと考えられてきた「宗教」と「ツーリズム」の親和的関係を明らかにしました。
-私も博士論文の公聴会に出席しましたが、伝統的な聖地参詣が、近代的な旅行会社によって観光産業化されていく様子をとても興味深く聴きました。この研究テーマは、入学する前からずっとやりたいと思っていたのでしょうか?
安田:私は学部のときは歴史学、それも西洋史を専攻していました。オーレル・スタイン(1862~1943年)というハンガリー生まれの中央アジア探検家の動向を追っていく中で、19世紀以降に西洋でブームになった東方世界への旅行に関心を持つようになりました。特に、旅行ブームの中で東方世界のイメージが西洋でどのように作り出されてきたのかに着目しました。
―いわゆる、オリエンタリズムの問題ですね。
安田:はい。その延長線上で、大学院では、現代のヨーロッパにおけるイスラーム世界へのツーリズムが、東方世界のイメージをどのように再生産させているのかを批判的な視座から研究しようと思って、ASAFASに入学したのです。
-なるほど。そして、入学して研究を始めていったわけですが、少しずつ現在のテーマに関心が移っていったのでしょうか?
安田:ASAFASの連環地域論講座(*)に所属して、イスラーム世界のことを専門的に勉強していく中で、宗教とツーリズムの関係がとても面白いトピックだということが分かってきました。
-ヨーロッパの観光産業が作り出すイスラーム世界のイメージよりも、実際に、イスラーム世界のツーリズムの現場を見ようと思ったわけですね。でも、なぜシリアに?
安田:実は、中東地域に初めて行ったのは、ASAFASに入ってからでした。1回生のときに、エジプトとシリアを訪ねました。そこで、現地の観光産業や聖地参詣の様子を実際に見ることで、これが自分が研究すべきテーマだと思ったのです。
-エジプトよりもシリアの方がよかった?私は、シリアや隣国ヨルダンのような生真面目なアラブ人気質よりも、陽気なエジプト人気質の方が性に合うけどなぁ(笑)。
安田:そうですか?私は、シリアの人たちの方が気が合いますけど。でも、2つの国を比べることで、より面白いと自分が思えるテーマに出会えたのは、とても良かったと思います。あと、シリアにまた来たい!と思えることが、外国を対象とした研究を進めていく中での大きなモチベーションになりました。
(*)連環地域論講座とは、東南アジア地域研究専攻に属する一講座。西アジア・イスラーム世界、および、南アジア・環インド洋世界の研究・教育を主に担ってきた。2009年のグローバル地域研究専攻開設によって、同専攻設置の各講座(イスラーム世界論講座、南アジア・インド洋世界論講座)に移行した。
ASAFASで研究をするということ
-ASAFASは、「地域研究」を掲げた研究・教育体制をとっていますが、安田さんの研究テーマをASAFASで進めていくというのは、どんな意味があったでしょうか。安田:私の研究対象であるシーア派聖地参詣は、宗教、経済、社会、そして政治と、さまざまなアクターが複雑に絡み合って成立しています。ですから、様々な角度から分析することができます。でも、現代のシリアにおけるシーア派聖地参詣が何であるかを包括的に示すためには、既存の複数の学問ディシプリンを架橋する新しい方法論や分析枠組みを作り出す必要があると常に考えていました。博士論文を仕上げるまでに、どうやって既存の方法論を批判的に乗り越えられるのか、とても悩みました。研究を進めていく中で、そうやって悩み抜いた末に自分独自の視点を生み出す、あるいは生み出せるのが地域研究であり、そういったことは、ASAFASだから可能なんだと思うようになりました。
-そういう知的格闘の成果が、「宗教ツーリズム」という分析概念として結実しました。
安田:はい。「結実」と言われると気恥ずかしいですが…。
-研究環境としてのASAFASはどうでしょうか?
安田:何よりもいろいろな分野の教員・院生が在籍しているというのが大きかったですね。ゼミでのまったく違う分野の発表が、自分の研究に新しい発想を与えてくれるということもしばしばありました。あと、ここの院生は、良い博士論文を出して立派な研究者になるんだというモチベーションがとても高い。私が博士論文を完成させることができたのも、そういった先輩・後輩から受けた刺激のおかげだと思っています。
-修士課程と博士課程を一体化させた5年一貫制というASAFASのしくみは、どうだったでしょうか?
安田:実は私は、博士予備論文(**)を入学3年目の6月に提出しているんです。普通の大学院だったら、修士課程3年目で修士号をとって、翌年からまた3年間の博士課程に進まなければならないのですが、ASAFASはそういった区別がありません。これは、5年間という長いタイム・スパンを、自分の研究の進捗状況に合わせて、柔軟に計画を組み合わせることができる点で、とてもよいしくみだと思います。
-特に、フィールドワークにもとづいた研究をする場合、どの段階で現地に長期滞在するかは、研究テーマによって大きく変わってきますよね。
安田:あと、ASAFASは国際志向が非常に強い。現地でのフィールドワークを教育方針の1つに掲げているので、これは言わずもがなですが、海外に対するハードルがあらゆる意味で低いと思いました。フィールドワークに入って当然、国際学会で発表して当然という雰囲気があります。それに対する研究科からの支援(ノウハウの伝授や物的サポート)も手厚く受けられます。
-安田さんも、シリアでの1年におよぶフィールドワークに加えて、積極的に国際学会で発表をしていました。たしか、今度、国際学会での発表がもとになった論文が刊行されるんでしたよね?
安田:はい。スウェーデンのLund大学で行われた現代シリアに関する国際会議での報告論文が、アメリカの大学出版部(Syracuse University Press)から刊行予定の論集に収録されることが決まりました。この会議は、海外のシリア研究者からの誘いがあって参加したのですが、こうした国際的な研究者のネットワークにも臆せず飛び込めるのも、ASAFASの国際志向の下で育ってきたからだと思っています。
(**)ASAFAS在籍の大学院生が2年次、あるいは3年次に提出する論文。他大学における修士論文に相当するが、博士論文執筆のための研究サーベイ、基礎的分析などが重視される。
博士号取得後の研究にむけて
-安田さんは、これで博士号を取得して、新たな研究ステージに進むわけですが、今後の研究の展望をお聞かせください。安田:イスラーム世界におけるツーリズムには継続的に注目していきたいと思っています。これまでは、さまざまなアクターが宗教ツーリズムをどのように生み出してきたかに焦点を当ててきましたが、今後は、宗教ツーリズムがイスラーム社会をどのように変えていくのかについての分析も行っていきたいと思っています。
-そういえば、11月の博士論文提出後に、マレーシアに行かれたんですよね?なぜ東南アジアに?
安田:マレーシアは、現在、「イスラミック・ツーリズム」という新しい観光のあり方を提唱していて、その世界的拠点になろうとしています。私は、この「イスラミック・ツーリズム」というものが何であるのかをもっと詳しく知りたくて、観光業者を対象としたトレーニング・プログラムに参加するためにマレーシアに行ってきました。
-イスラミック・ツーリズム、面白い動きですね!そうしますと、中東と東南アジアという地域間比較も自然と視野に入ってくると思いますが。
安田:はい。イスラミック・ツーリズムもそうですが、イスラーム世界では今、新しいツーリズムのあり方がどんどん出てきています。それらを丁寧に調査して比較検討することで、いわゆる私たちが念頭に置いているツーリズムのあり方を再考することができるのではないかと思っています。
在校生・受験志望者へメッセージ!
-こうしてお話をうかがっていると、安田さんは、常に「ツーリズム」に立ち返って研究をされてきて、今後も継続して、それを追究していくのだということがよくわかります。そして、これは、ASAFASに入学前の興味にも立ち戻るものであるとも思えますが。安田:そうですね。イスラーム世界からツーリズムを再考するという意味で、入学前の関心と共通するものがあります。結局、気になる問題意識というのは変わっていないんだと思います。
-その問題意識が安田さんの大学院での研究を支えることにもなったということでしょうか?
安田:自分の頭の奥底にあるそうした問題意識があって、それに何とか応えたいというモチベーションがあるからこそ、辛いときや困難に直面したときでも、研究を続けてこられたのだと思います。
-それが、博士論文を書き上げたからこそ言える、在学生や受験志望者へのメッセージになりますね!
安田:はい。受験志望者の皆さんには、ぜひ何らかの根本的な問題意識を持ってASAFASに来て欲しいと思います。それは、別に大それたものでなくてもいい。普段の私たちが持っている些細な常識を少しだけ疑ってみることから始めるくらいでよいのだと思います。そして、その問題意識を何が何でも解明してやる!という覚悟を持って来て欲しいと思います。
-なるほど、「覚悟」ですか…。
安田:「覚悟」とか「格闘」とかいうと辛いイメージがありますが、それを楽しみに変えてしまえるような研究トピックがイスラーム世界には山ほど眠っています。ぜひ皆さんも、イスラーム研究の扉を叩いて、覚悟を持って格闘することの心地よさを味わってもらえればと思います。
-今日はどうもありがとうございました。(了)