ともに来たれ、スーフィズム研究の道へ

【4.倫理の学としてのスーフィズム】


 「僕(しもべ=人間を指す)から罪が生じると、それに伴って無明の闇が生じる。悪行をたとえれば火であり、闇はその煙である。家の中で70年も火を燃やしてきた人のようなもので、家はまっ黒になっているのにきっと気づくだろう。それと同様、心も悪行でまっ黒になっており、 それはアッラーに向かって悔い改めなければ、浄められることはない。」

 「修行階梯の第一は、悔い改めである。・・・悪行を犯したときの僕をたとえれば、新しい鍋が一時間火で熱せられ、黒くなってしまったようなもの。急いで洗えば、この焦げつきは落ちるが、放っておいて何度もそれで調理していると、その焦げつきが固まってしまい、ついには鍋がこわれてしまう。そのときになって洗ってみてもなんの役にもたたない。・・それゆえいつも至高なるアッラーに許しを求めよ。」

 悪行・罪を犯しがちな人間に、すぐに悔い改め、神に許しを求めるべきことが、平易な言葉で噛んで含めるように説き明かされています。難しい神秘主義哲学でも、怪しげな民間信仰でもないスーフィズムの一面がお分かりいただけたでしょうか。

 旧ソ連が崩壊した後のウズベキスタンを訪ねたことがありますが、ある伝統的イスラーム学校では、スーフィーの古典を「倫理学」の教科書に使っていました。このことは、スーフィズムがイスラーム世界においてごく普通の人々に身近な存在であり、彼らに指針を与えてきたことを、如実に示しています。

 
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